序文

軽井沢の春は、ある朝突然やってくる。昨日まで灰色だった空が、一夜にして淡い青紫へと変わり、谷を包む空気の匂いがほんのりと柔らかくなる。それは決して派手な到来ではない。ただ静かに、しかし確かに、春は訪れる。

バレーオークヘイブンの敷地を取り囲む樫の木たちは、冬の間ずっと沈黙を守ってきた。枯れ枝の先に小さな芽が宿り始めるのは、まだ朝の気温が一桁の頃だ。それでも生命は動き出している。地中深くに眠っていた根が、雪解け水を吸い上げ、ゆっくりと枝先へと命を送り届ける。この目に見えない営みが始まることで、谷全体が少しずつ変わっていく。

桜の花びらが散り終えた頃こそ、軽井沢の本当の春が始まる。人々の目を奪う桜の季節が過ぎると、もう少し静かで、もう少し深いところにある春の美しさが顔を出す。それを見るために、私たちはここにいる。

草花の目覚め

地表から最初に顔を出すのは、フキノトウだ。まだ雪が残っているような場所でも、土の温もりを感じるやいなや、丸みを帯びた緑の塊がひっそりと芽吹いている。その姿は小さいが、冬の長い眠りを終えた者の持つ、静かな力強さに満ちている。

続いて、ヤマブキが金色の花を開く。雑木林の縁に沿って、明るい黄色の点が増えていく様子は、まるで誰かが谷に光を降り注いでいるようだ。スミレも続く。薄紫の小さな花が、落ち葉の絨毯の隙間から顔をのぞかせる。名もなき野草たちが次々と目覚め、谷の色が少しずつ豊かになっていく。

散歩の途中、石の隙間にカタクリの花を見つけた時の嬉しさは格別だ。下向きに咲くその薄紫の花弁は、恥じらうように地面を向いている。見つけてもらえなくてもいい、ただここで咲く、という潔さのようなものを感じる。そのひとつひとつが、長い冬を経て地中で蓄えたエネルギーの結晶なのだと思うと、ただ美しいというだけでなく、何か敬意のようなものが湧いてくる。

春の風は、冬眠していた魂を優しく揺り起こす。

春の散歩道

バレーオークヘイブンには、いくつかの散歩道がある。その中でも、小川沿いの細い道が春には特に美しい。冬の間は凍っていた水面が溶け、清澄な流れが戻ってくる。水の音と風の音、それだけが耳に届く朝の散歩は、一日を丁寧に始める儀式のようなものだ。

道の両側には、ミズキやクヌギの若葉が広がる。光を透かした新緑は、このうえなく澄んだ緑色をしている。陽の光が葉脈を照らし出す様子は、薄い和紙に光が通るのと似ている。足元では、昨夜の雨で湿った土が柔らかくなり、歩くたびにわずかな弾力を感じる。

春の散歩では、目的地を決めないのがいい。ただ感覚の赴くままに歩き、立ち止まり、しゃがんで小さな花を見つめる。時間の流れ方が変わる。日常の速度とは全く異なる、自然の速度に体が合ってくる。それがここに来ることの、ひとつの大きな理由でもある。

小川のほとりで、ウグイスの声を聞いた。まだ少し不完全な、練習中のような鳴き声だったが、それがかえって愛おしかった。春もまた、完璧ではないところから始まる。

食と季節 — 春の恵みをいただく

春の食卓は、山からの贈り物で始まる。先ほど触れたフキノトウは、刻んでみそと合わせたふき味噌にすると、春の苦味がほろりと口の中に広がる。ご飯にのせるだけで、それだけで春を食べているという満足感がある。

タラの芽の天ぷらも、この季節だけの贅沢だ。さっくりとした衣の内側に、わずかな苦みと滋養の深みが宿っている。野山から採れた春の恵みを、その日のうちにいただく。食べ物と季節がこれほど密接につながっているということを、都市の生活では忘れがちになる。

地元の農家から届く山菜と、バレーオークヘイブンの小さな畑で育てたハーブを合わせた春のサラダは、淡い緑と紫のグラデーションが美しい。ドレッシングには、地元産のりんご酢と菜種油を使う。シンプルだが、素材の味が際立つ。

食べることは、季節を体に取り込む行為だ。春の苦みを味わうことは、長い冬を終えた体に新しい気を入れること。先人たちが山菜を食べてきた理由には、こうした身体の知恵が宿っているのかもしれない。

春の手仕事

春は、手を動かしたくなる季節でもある。冬の間に温まった家の中からようやく外へ出て、土に触れ、種を蒔き、苗を植える。バレーオークヘイブンでは、春になると小さなワークショップを開いている。参加者と一緒に、庭の手入れをしながら、野草染めの準備を始める。

春の野草で染めた布は、淡く優しい色になる。桜の枝を煮出した染液は、ピンクではなく、温かみのある灰色がかったベージュだ。草木染めの色は、計算通りにはいかない。水の性質、染める素材、その日の気温。すべてが影響して、一期一会の色が生まれる。それを面白いと思えるかどうかが、手仕事の醍醐味だ。

摘んだ野の花を使ったポプリ作りも、春の定番だ。スミレやヤマブキの花びら、小さなシダの葉を合わせて、ガーゼに包む。数週間後、ほんのりとした香りが残る。花の命を、別の形で持ち続けるための小さな仕事だ。

結び — 春とともにあること

桜が散った後の春は、静かだ。観光客の数も落ち着き、谷に本来の静けさが戻ってくる。その静けさの中でこそ、春の深い部分に触れることができると感じている。

季節は、毎年同じように巡ってくるようでいて、実は少しずつ違う。去年の春と今年の春は、同じ場所で起きていても、全く同じではない。気温の推移、雨の量、風の方向。そしてそれを見ている自分も、毎年少しずつ変わっている。だから毎年の春が、初めての春のように新鮮に感じられる。

軽井沢の谷に生きる命たちと共に、春を迎えるという経験は、ここに来てくれる方たちにも分かち合いたい。急がなくていい。見落としてもいい。ただ、今この季節がここにあることを、体で感じてほしい。それだけで十分だ。春は、必ず来る。